周冠宇、F1シート獲得後に批判を耳にしないことは不可能だったと語る

2022年シーズンにアルファロメオでF1シートを獲得し、その過程で中国初のF1ドライバーとなった周 冠宇が直面した批判について口を開いた。

現在24歳の周は、アルファロメオのタイトルスポンサー離脱に伴い、チームがステークF1チーム・キック・ザウバーにリブランドされる2024年に3度目のF1シーズンを戦うことになる。2023年の活躍により、チームメイトのバルテリ・ボッタスとともにもう1年ステアリングを握ることになる周は、2024年に中国GPがカレンダーに復帰し、初めて母国でのレースに参加することも楽しみにしている。

F2で3シーズンを過ごした後、ルーキーイヤーにアルファロメオと契約を交わした周は、当然ながらその自分が成し遂げた偉業に胸を躍らせた。

「史上初の中国人ドライバーとしてF1に参戦することは、中国のモータースポーツの歴史にとって大きなことだ。」と周は語っていた。

「多くの期待が僕に託されていることは分かっているし、これまで同様、これをモチベーションとして、より良くなり、より多くのことを成し遂げたいと思う。」

しかし、『The Players’ Tribune』で、周はF1グリッドに初めて立ったとき、ソーシャルメディア上の批判を無視することがいかに “不可能”であったかを明かしている。

「あの冬、2021年11月にアルファロメオが僕のシート獲得を発表したとき、僕は人々が僕のことをどう思っているか知っていた。」

「それを聞かないのは不可能だった。そして、辛かった。僕はそういう機会を得るために生涯を捧げてやってきたんだから。僕の家族は多くの犠牲を払った。僕は12歳の時に中国からシェフィールドに引っ越したんだ。すべてが必要だった。運もだ。そして、レースのチャンスを得る前に、”あいつはふさわしくない、あいつがやるべきだ、あいつがいるのは金のおかげだ”と言われるんだ。」

「わかっているよ。人々はそれぞれの自分の意見を持つことが許されているし、もちろん、F1には多くの政治がある。それは僕もよく知っている。外からすべてを見るのは難しいよね。そして、今自分がここにいることに感謝している。しかし、同時に僕もまた一人の人間なんだ。」

「僕自身F1とのつながりを感じていただけに、最初はつらかったと思う。長い間ファンだったんだ。今でもそうだ。中国GPには毎回足を運んだし、レースをしていなくてもそうしていた。それが僕なんだ。」

「もし一緒にタイムスリップして、僕が少年だったころの部屋を見せてあげられたら、君は大笑いするだろうね。壁一面にフェルナンド・アロンソのポスターが貼ってあったんだ。お気に入りのポップスターに憧れる10代の子供の部屋のようだったよ。両親が数部屋隣で寝ている間、変な時間にテレビの前に座って、ボリュームを下げまくっていた。そして、ただ夢を見ていたんだ。」

「ミハエルやフェルナンドやキミがレースに勝つのを見ながら、お気に入りの小さなおもちゃの車をテーブルから取り出して、カーペットの上を走り回った。それが僕のやりたいことだったんだ。」

初めてシートを手にした瞬間の周の記憶には葛藤があるかもしれないが、それよりも自国を代表する最初のドライバーであることに大きな誇りを感じたという。また、F1初レースとなった2022年バーレーンGPで10位入賞を果たし、デビューポイントを獲得したことも懐かしく振り返った。

「F1史上初の中国人ドライバーになれたことは……僕のすべてだ。」

「母国のみんなから受けたサポートを誇りに思う。僕は彼らのためにレースをするんだ。モータースポーツで知られている国ではないけど、僕たちはもっと良くなれるということを示したい。まだまだ速くなれるんだ。」

「その欲望と情熱が、バーレーンでの1周目をとても厳しいものにした。全体から見れば、年間1000周以上のうちの1周に過ぎないけれど、僕はみんなに、自分自身に、自分がそこに属していることを証明したかった。だから頭を下げて、自分の直感に従ったんだ。」

「僕らのチームは素晴らしい戦略を持っていて、最後まで戦い抜いた。最後の数周はクレイジーだったし、10位でゴールしてポイントを獲得したときは……優勝したような気分だった。」

「あの夜、パドックで母親と抱き合ったんだけど、ふたりとも信じられないような安堵感に包まれたと思う。いつかこんなことが起こるかもしれないと思いながら、数え切れないほどの時間をかけてセッションを行き来していた。故郷の中国で見てくれているであろう少年少女を思い浮かべると、ちょっと感慨深かった。今でもそうだ。」

「あの週末は僕にとって大きな意味があった。どのレースもそうだ。ファンのみんなにもそれをわかってほしい。」

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